【深夜の稽古会から律芯館まで 15年の雑記百景】執筆 樋口雄志
【深夜の稽古会から律芯館まで
15年の雑記百景】執筆 樋口雄志
2010年4月
攻防から投げをしかけたが投げ返されて、咄嗟にカニバサミに変化する。掛かったと思った刹那立ち方が変化して強靭なフレームで防がれた
、、、
15年近くになるが藤原との最初の攻防のやり取りを覚えている
深夜の体育館の前で様々な武術家が集まる武術サークル「深夜の稽古会」その頃僕は色々な流派を渡り歩きロシア武術システマを自分なりに真剣に学んで普及活動していた頃。システマはまだ有名になる前で軍隊格闘技の荒々しさを残していた
当時は各々のスタイルの技術を教えあったりした研究会だったが後々皆自然に藤原の技術や理論を重んじるようになり、
彼の空手や柔術の練習が中心になった
あの頃は藤原の音楽関係のルートで集まる人も多く、音楽の話になったり武術以外の交流も多い雑多な、でも活気のある集まりで良く朝まで稽古したり話したりして
今思えば随分楽しい思い出であの日々が現在も続けている原風景になってる
2013年4月
最初の一言から強烈だった
「悪いが君には教える事はできんし、学べんだろう藤原の柔術の練習相手に来てくれたら良い」
「私が初段を出すのは普通の流派の7、8段レベルにならないと出さない」
60代の師範の言葉と迫力に圧倒されるばかりだったが
見た事がない程の豪猛な突き蹴り
技を受けただけで相手が崩れる柔術技法、
なるほどなと思う説得力があった
それは今様々なジャンルの使い手の方の技を見ても印象が変わる事はない
呼び出されたのは○○年の頃
当時結婚を機に神戸から高砂に移り住んで深夜の稽古会にもあまり行けなくなってた
何より藤原が先生(伊藤先生、この人もまた辻川師範の唯一の内弟子)から自分の先生、辻川師範を紹介され内弟子状態で学んでいて、深夜の稽古会の集まりもほとんどなくなっていた
今更藤原が習い直す等どんな先生かと思ったが先生の家に通っており高砂の近所なので練習相手として来て欲しいと言う。凄まじい先生だからきっと学びになると
そんなきっかけで始まったが一応稽古自体には参加は許され、僕を皮切りに程なく藤原が深夜の稽古会のメンバーに声をかけ短い間道場の体をなすことになる
稽古は常に先生の気迫が道場に漲り、
言葉一つ所作一つミスが出来ない緊張感で進む
一つの基本を延々とダメ出ししながら続ける
ある時は剛猛な追い突きで吹っ飛ばされる
また
柔の乱取りの際は鼓膜を打たれ急所を打たれボロボロにされた
システマに加えブラジリアン柔術の経験もあり自信もあったし内心の怒りもあって本気で取ってやろうと思ったのが伝わったのかもしれない、
皆稽古終わりには毎回皆心身ともに疲労困憊で
藤原と二人だけの参加の稽古の時は最寄り駅で緊張感で飲む事すら忘れてた飲み物を飲みながら安堵の気持ちを語りあっていた
その時垣間見た藤原との辻川師範とのやり取りは技を学ぶというよりは叱責の様な熾烈さで
よくアレを一人で続けてたなと思う
それは藤原程ではないにしても我々にしても同じではあったが、、、
今辻川師範に思う事は孤高の人とはああ言う人だと言う事なんだろうなと言う事
誰にも、並び得ない、並びたたせない、
最初に言われた事は言ってる通りの
本当の事だった。
先生にとって教える事は技を盗むか盗ませないかの戦いでもあるのだろう、
その戦いに勝てたものは今も昔もほとんどいない、、、、
そんな道場の日々だったけど一年ほどした辻川師範が女生徒と再婚したあたりだったか
藤原が技法上での疑問のやり取りから自分で稽古するようにと言われて、突然道場は解散状態になり、
僕も時を同じくして田舎暮らしの難しさからか離婚して神戸を戻る事になった。それに伴い深夜の稽古会的な活動をまた再開しましょうという提案を藤原にした。
寒い冬を過ごすにはあの日々が必要だった、、、ともかくもそれが律芯館設立のきっかけになり大倉山近くの会館下七会館を借りて活動を始めた
2022年冬
こういうのが好きでね、とコーヒーとスイーツを照れ笑いで食べる喫茶店での先生を見ながら僕は馬鹿になった気持ちがしていた。隣の藤原は作業着の様なラフな服、僕はジャケットを羽織ってそれなりにフォーマルな格好していた。
どうやら二人とも形式にはこだわらないらしい
横山先生に初めてお会いしたのは
先生が取材の中で知った藤原の話や元々いた
辻川師範の話が聞きたいとの事だった
とはいえ話は広がるもので摩文仁賢榮先生のエピソードや糸東流、空手、武術の歴史からその他様々な知識量に口を開けてるばかりで知性と言うものに圧倒されるばかりだった
とにかく技術というものだけを追求してきた僕には、長い修行と学術として探求していく、単に研究者でもなく、単に修行者でもなくあんな在り方もあるんだと言う事を知って驚くばかりだった
長年摩文仁賢榮先生の元で学ばれた糸東流という物を大事にして探求しているような印象だった
2023年
この時の3人で会談した時も僕一人が緊張してたと思う、
何度かの交流と藤原の技や型の力量を確認したそれだけで、藤原に段位を出すしかも八段師範免状を出すという
横山先生は免状を出すために体道連盟や辻川師範にまでわざわざあっていた。
あの辻川師範に。それが本家の人間の人でも暖たかく迎える人ではない
聞けば会派はその技に対する苛烈な考えから決して隆盛とは言えない様だ
そしてこの藤原なるもの不心得者ではあるが、
技は辻川師範の動きである皆口を揃えると、
当の辻川師範でさえも
(これは意外な事であった全てを否定されると思っていた、少なくとも技に関しては連なりを認めて貰っているのかと妙な感慨があったが)
そこまで確認して
なおかつ八段位を出すために自分だけではなく摩文仁賢和先生の直弟子として、ただ一人生存する梅沢芳雄師範にも藤原のことを確認して貰い、梅沢師範を後見人として師範免状を出すと言う。
何も言わないが
色々調べて現状を知り例えどんな形でも糸東流に連なる優れた遺産を一掬いも余さず遺せと言う、暗に、しかし強い意思表示。この人もまた知性の影に藤原が糸東流を究めんと狂ったような内弟子時代を過ごした様に、、、
糸東流に執念にも似た狂気の様な情熱を宿した人だった、、、、
~最後に~
過去を書き綴っていよいよ
現在に近くなった
こうやって一つ一つ点在する思い出を振り返って見れば、揺蕩うような武術修行の道だった
その中で一つだけわかった事がある
優れた武術家には狂気の様な情熱があるが、それを持ちえない僕は何者にもなり得ないのだろう、しかしそれでも自分がどこに行くのかそれが見たいとも今感じている
またいつか振り返る時があれば見方もかわるのかもしれない、今は一端筆を置く
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