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神戸市中央区にて「古流空手、古流柔術」を指導をしている【律芯館】のブログです。 「歴史ある武術を稽古することで得られる心身の洞察力によって、 生き方を深め、自分だけでなく大切な人や周りの人も守れる強さを身に付けること。もし暗い闇の中で何かに怯え苦しむ人がいれば、武術がそこに光を灯せる存在になればという信念に基づいて稽古.指導を行っています」

【香川支部その後。と、【律芯館代表の修行時代、先生との稽古の日々の話】】

嬉しいニュースです。



四国武術セミナーから、2週間半が過ぎました



上田さんに任せた律芯館四国支部では、先日二度目の稽古でしたが、新たに3人入門されたと報告を受けました。



うち一人は、なんと、セミナーの時に指導した競技空手の女子選手でした。



あの時は、今後もう指導することもないかもしれないと思ったので、一日だけの律芯館での稽古になったとしても少しでも色々と伝えれたらという気持ちでやりましたが、これでまた一緒に稽古出来ることもありますね。





それまで上田支部長から、基本をしっかりと学んでいって欲しいと思います。





少年部は、香川支部からのスタートですので、今入門してる子達が、律芯館少年部の第一期生になります。



稽古を通じて自分の弱さに負けない、心の強い人になれるよう、努力していきましょう。







★☆



◆~律芯館武術コラム、no.9

 

【律芯館代表の修行時代、先生との稽古の日々の話】









神戸武術研究所を設立し、四国に支部も出来、少しづつ生徒も増えていっています。





その分、私が指導する機会も増えているのですが、最近良く、先生との稽古の日々を思い出します。



私の師匠であった先生は、これほどの武人は、後にも先にもいないだろうと断言出来る程の達人でした。



そして先生との稽古は体力面よりも、精神的にキツいことが多く、全力で、という言葉が似合う稽古でした。





だからどんな稽古の時も、いつも今日限り。という気持ちで稽古をするようにしていました。





ある日の稽古の後、別れ際ですが、



「今日この帰り道、どちらかが死ぬこともあるかもしれない。そういう気持ちでいなさい」



と言われた言葉には胸が熱くなったことを覚えています。

 

 

稽古中は常々「お前は後、何年生きるつもりだ?。」というように疑問を突き付けられていたように思います。



何をダラダラしている。何年も稽古して身に付けるようなつもりでやってるのではないか?というような意味だったのでしょう。



それは違うぞ。それではダメだと、言われていたのだと思います。



明日も、明後日も一年先も、当たり前のように生きていると思ってるだろう。だから何の技もモノになっていない。



まずそれをやめろ。という指導の仕方でした。





先に時間が続く保証などなく、また失った時間は決して戻らない、だから無駄にしてはいけない。



と色んな表現で稽古を通じ言っていたように思います。





★☆







ところで武道の世界には、「上達」の他に「下達」という言葉があります。





例えば、私の先生から門下生の誰かが、「下手くそ」と言われたら、それは最高のほめ言葉でした。







まぁ、そんなことを言われることは、めったになかったのですが(あったとしても、その技は下手だな。という限定付です)



大抵は、どの技を稽古していても「違う」。としか言われませんでした。



また違うのに、一見似ている(似させようとしている)のは最も違う。とも良く言われました



「まずせめて下手になれ、なぜ下手から始めれない?」というような問答を良くしました。



そうなるには、物真似をやめて本物を目指さないとならないのですが、当時の私ではそれは中々難しいことでした。





この「違う」と「下手」の間には天と地ほど差があります。





「下手だな」と言われる時、それは入口に入った、努力の方向は間違えていないと言われているのです。







逆に「違う」というのは「違う」のです。

やってることが、違うので、そのまま努力すると、どうしようもないことになっていきます。









一時間違う努力をしたら、それを取り戻すには、三時間かかる。と先生は常々言っていました。







そんなことをしていたら空手が身に付く前に人生などすぐ終わってしまいます。









何年も続けてたらいい、何でもいいから努力すればいい。



辛いのを我慢している実感があればいいというような、雑な精神状態は、稽古とは呼べないという所に武道の厳しさがあるように思います。







下達を数年続けていたら、本人に余程の感性の変化があるか、相当な指導者との出会いがなければ、修正は容易ではありません。



それは身を持って知っているのでそう思います。







だから、一見厳しいだけのような、先生がいつも話していた「本当のこと」というのは、自分にとって何よりもありがたいものでした。





★☆







先生の指導、稽古は常に、教えた日に「今日出来るようになれ。」という日々の連続でした。





私が空手を教えるからには一秒たりとも下達することのないように、人生は短い。



生きて、今ここにいるということは当たり前ではないのだ。



という強烈な迫力とメッセージが常にありました。





しかしそれでも私自身は、残念ながら、先生から教わった技の多くは、先生から離れた後になって、下手くそになれたものばかりでした。







ですが教わることが出来なくなって、一人で稽古をしていく日々の中、あることに気づきました。







教わったことを書き出し、実際に稽古して、技をまとめていく度に、それ以降教わるはずの予定だった技に関しては、自分でその問題を解いていける能力を既に与えてもらっていることに気づいたのです。







それから、空手の型を一つづつ解いていく度に、それはまるでダ・ヴィンチコードのような暗号で、その暗号を解いていくことで先生がいずとも上達していけるようになっていました。





様々な型に隠された暗号を通じて先代や先生から直接指導を受けているような感覚でした。







それも、全力で教えてくれた先生がいたからこそでした。



「私の技は、切り売り出来ん。」



と話されていましたが、それは、技を使う。というような低いレベルの技ではないからでした。



そのような、いい技だと思うものはもらって、他はいらない。というようなモノのような扱いの出来る世界ではないからです。





技を使うのではなく、技になる。



技を使ってやろうなどと考えている自我のある間は分かる分けがない。



という話しでした。自分には思い当たることがあるので、生徒にもこの話をします





とにかく1秒1秒真剣に生きていくことが大切です。



武道の稽古もその中でしか本当の意味での上達はありません。



我々、律芯館では稽古の場において、



「今日会えた人にまた会えるとは限らない分けですから、時間の限りやれることをお互いにやりましょう。」



というのを道場の方針としています。





だから、稽古を始める時も、

~先生に「礼っ」という形ではなく、



教える側も教わる側も、一列に並んで、正面に礼をしてから稽古を始めます。





それはこのような、稽古が出来る場に恵まれたことに対する礼です。その場は、指導する側、と生徒の双方で作られるものです。上下関係ではなく、皆が共に成長する為の場を作るメンバーです。





本部道場では、そのような雰囲気をメンバー全員で、作り出せてきていると思います。







本部道場、香川支部、お互いに良い道場となれるよう努力していきましょう。







神戸武術研究所「律芯館」

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