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神戸市中央区にて「古流空手、古流柔術」を指導をしている【律芯館】のブログです。 「歴史ある武術を稽古することで得られる心身の洞察力によって、 生き方を深め、自分だけでなく大切な人や周りの人も守れる強さを身に付けること。もし暗い闇の中で何かに怯え苦しむ人がいれば、武術がそこに光を灯せる存在になればという信念に基づいて稽古.指導を行っています」

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【遠くの鐘をならせ~律芯館武術コラム8、「言語と「型」の共通項について」】

禅の世界では師匠が弟子に「遠くの鐘をならせ」という考案を出すことがあるそうだ。


そしてこれは弟子が鐘になりきって「ごーん ごーん」と言い、遠くの鐘です。


と答えるのが正解だそうだ。


最近この話を聞いたのだが、最初わけが分からなかった。流石に無理があるのではと思ったからだ。


しかし暫く考えてると、こういうことかと腑に落ちたので、「これは、~という場所にある~寺の鐘を鳴らせ。と言われたらこの答え方ではダメではないか」と思うところから、こういうことではないかと、自分なりには納得した。



★☆


武術コラム


【言語と「型」の共通項について】


 


武道の稽古では「型」を稽古するが、この「型」という技術は、時間と空間を限定することで、それは言語と深い関係がある。



以前、それを説明する為に、コンビニで買ってきたペットボトルを門下生に見せて「これは何ですか?」と質問したことがあった。


 



それである人は「水です」と言い、他の人は「ペットボトルです」とか「飲み物です」と答えたのだけど、

どれも正解で、他にも「プラスチックです」でも「物質です」でも「叩くと音がするものです」でも間違いではないということを理解してもらうようにした


 


こんな単純なことではあるけれど、人が争ったり、戦争がいつまでもなくならないのは何故か?ということがここには集約されている。


 


問題は我々は何かを見た時に「これはあれです」という風に条件反射で言葉を貼り付けてしまうように出来ている、と同時にその自分の意見に対して「普通そうでしょう」という感情がひっついてくるということだ。



しかし実際は、同じモノを見てもこれだけ違う言葉が出てくるのだ。


 


例えば「水」と答えた人が、「飲み物です」と答えた人のことをそれ程何も思わなくても、

「プラスチック」です。と答えた人のことは、「なんだこいつ何でそんなこと言うんだ、普通ペットボトル飲料持って聞かれたら、飲み物として答えるだろう」と、おかしいのではないかという気持ちが生まれる。



そして人は意見が近い人を高く評価し、そうでない人を低く見るという現象はどこでも見られる。


 


まぁだから人間関係はしょっちゅうおかしくなる。



これはこうだ、と条件反射で決め、さらに皆がそれぞれ「普通そう思うでしょ」と考えてる分けなのだが、実際は見えてるものにつける「これはこうでしょは」は、てんでバラバラだからしょっちゅう嫌な気になるし、戦争にもなる。


差別意識は簡単にはきえるものではない。だから何故そういう意識が生まれるのかを知ることが必要で、それが争いをなくすことにつながっていくと思う。




ここから武道の話に入るが、


先ほど書いた【「型」という技術は、時間と空間を限定すること】だが、ペットボトルの時の質問では、この「型」が機能していないことになる。


 


「これは何ですか?」という言葉の意味が広すぎるのだ。それで色んな答えが出る。


 


そこで時間と空間を言葉で限定する。



そうすると、



「先ほど自販機で買いましたこのペットボトル飲料ですが、この飲み物は何ですか?」



と聞けば、水が入ってたら「水です」と答えが出る。



もしコーラが入ってたらこの質問では、「コーラ」の他に「炭酸飲料です」という答えが出る可能性があるので、



「先ほど自販機で買いましたこのペットボトル飲料ですが、この炭酸飲料は何ですか?」

と質問を変える。



また、「先ほど自販機で買いましたこのペットボトル飲料ですが、この入れ物の材質は?」

と聞かれたら、「プラスチックです」と答えが出る。



逆に「水」とか「飲み物」とは答えられない


 


 


このように質問を言語で限定すると、答えの幅も限定されるのだ。


 


武道の型でも同じように、具体的に式を設定すると、その対応として動きが生まれる。



それがたった一つの動きにまで集約されると、その式は「型」となる


色々動けたり、変更しても困らない「型」というのは偽物ということになる



これが「律芯館」での「型」のいみであるが、


しかしこれも「型」とはこうである。と言語をつけただけで、武道を稽古する人の数だけ「型」の意味も存在することを忘れると争いになるのだ。


 


人は、「これはこうだ」と意味づけを強化したもの程、執着するから、例えば自分が「型」とはこうだ。と究極までいってたとしても、他の人の型を見て「なんだこいつの型は。これが型だと思っているのか」と悪い感情が出た瞬間に、それは武道という道から逸れてると知らねばならない。


戦争への道だからだ。



武道の稽古では、言語の構造。「型」化するということを学んでいく過程で、思い込みという癖が誰にでもあるということが見えてくる。



例えば新しい技を教わった時でも「これはあれだ」と過去の経験から瞬時に思い込み、もう実際の動きなど見えていない。


 


それが上達を妨げる最大の要因になるので、稽古では主観をいかに外していくかということが主目的となる。



稽古が進むとそれと連動して、日常生活でも瞬時に思いこんで固定してしまう癖というのに気付けるようになってくる。


嫌なことを言われる(この嫌なこと。というのも主観)


しかし「あの人嫌な人だ」と思った、数日後状況が変わり、いい人だなって思ったりする。


その逆もある。


逆に何が起きても、ずーと「嫌な人」として見てる自分


何されても「いい人」だからという目でみてる自分


こんなコロコロ変わったり、現実と関係なく変わらないモノの見方をその時は、確実に正しいと思いこんでることに気付くと



ふと「これは、違うな」と思えて怒りが消える瞬間が来る


要は物事の一面しか見てないだけだと気づくからだ。


そうすると、すーっと落ち着く。


武道の稽古にそういう力があるのは、言語と「型」の動きを観察することから生まれる洞察力からだと思う



そういう技術であるからこそ稽古する価値もあるし、次の世代に渡していく無形文化財なのだと考えている。


 



神戸武術研究所「律芯館」

代表 本部道場 師範blog


 


★☆


~稽古が足りてないの話~。



「遠くの鐘をならせ」


と聞いた時、僕はありもしない、遠くの鐘というイメージを勝手に作りあげ、そんなのそこまで行かないと鐘を叩けないだろうと思いこんだ


だから


「ごーん ごーん」


と答えた弟子の「これが遠くの鐘です」


という言葉を聞いて、最初、「馬鹿にしてるのではないか」と思ってしまった。


 


しかし、こういう意味の広い浮いた言葉は100人いたら100人それぞれの「遠くの鐘」が現れる


良く考えたら別に自分が声を出して「これが遠くの鐘です」と答える人がいてもおかしくない。



例えば、そのお弟子さんの生まれ故郷では、単に自分が「ごーん ごーん」ということを「遠くの鐘」と呼ぶ村で育っただけだったのかも知れない。


ありとあらゆる可能性が考えられる。



「普通はこう」と自分が思う時、自分は何でも知っているのだ、という立ち位置にいることを知らなければならない。そこから出てくる発想である。


 


 


この考案のことを考えてると自分の価値観や先入観というものがぶち壊される


昔から武道と禅とは縁が深いが、「こころを育てる」という共通項がそうさせるのだと思う

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