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神戸市中央区にて「古流空手、古流柔術」を指導をしている【律芯館】のブログです。 「歴史ある武術を稽古することで得られる心身の洞察力によって、 生き方を深め、自分だけでなく大切な人や周りの人も守れる強さを身に付けること。もし暗い闇の中で何かに怯え苦しむ人がいれば、武術がそこに光を灯せる存在になればという信念に基づいて稽古.指導を行っています」

【律芯館武術コラム(7)「技を覚えるコツ、、古武術の「古」とは何か?について」】

最近、古流柔術の稽古をしている生徒から、「道場で技を覚えても家に帰って一人でやってみようとすると、手順を忘れてしまっていたりする」と相談を受けたので、技を覚えるコツと、古武術というのを律芯館ではどう捉えて稽古しているのかについてアドバイスしました。

その時のことを少し書いておこうと思いますので、当道場に興味のある方は参考にしてください。
 
 
 
【ここから少し古流柔術の専門用語が入ってきますので先に説明させて頂きます。

古流柔術の型稽古では通常二人一組となって決められた手順で技を稽古します。
その時に技を受ける側を「受」と呼び、技をかける方を「取(もしくは捕)」と呼びます

。柔術は護身術である為、基本的には自分から攻撃するのではなく、相手に対応するという形になるので、「受」の方から何かしら仕掛けるのが通常多くなっています(例外はあります)】



話を戻します。

先ほどの生徒から受けた相談ですが、

まず「相手がいないと難しい。」と感じたことはとても大切なことです。そうあるべきだと思います。




何故ならそれによって、柔術の技を覚える時、取は、自分の手をどうするのかではなくて、相手をどうしたいのか?どのように崩したいのか?


そこから相手はどう崩れ、どういう形に固められるのか。


と技をかけられた相手の動きの方を覚えとくようにする必要があると気づくきっかけになるからです

(そこから一人稽古によって技の理解を深めることができます)




例えば相手を中心に考えると、手順は自然に思い出せますが、逆に覚え方が自分の動きだけで覚えると、一人になった時、それが何の為の動きなのか分からなくなって忘れてしまう、、というよりそこから考えても思い出す材料を覚えてないので思い出せないということになります。






これは例え話ですが、居合で、次の手は正面から斬るのか、袈裟で斬るのか?





と忘れた弟子二人が、「先生は、こうしてた 」




「いや先生はこうしてた。」






と言い合ってるとします、



それでは困りますので、そういうことにならないよう伝統を守る為、手順を紙にメモして書いたりして忘れないように覚え次の世代に伝えていく。






という覚え方で稽古をしていくのが、古武術という考え方があります。





そこで、手順をメモした紙もなくして、その時先生がどうしたのか正確に思い出せない弟子二人の前に、もう一人弟子が現れます 。





「次の手の話ですか?

この状況で、こう斬ろうとしたら、相手は、こちらにしか動けませんので、こちらは追うと同時に斬るなら袈裟斬りにしかなりません。



正面斬りにするなら、一手動作が増えるのでその時に斬られてしまいますね。

先代は袈裟で斬ったでしょう。

型のこの部分の手順は袈裟斬りです」

と、言います。






二人は、反論します。




「何故先代がそうしてたと言い切れるのですか?」


と、


それで答えるのですが、


「あなた方が大切に守っている手順は、そのように動く方でないと作れませんし、それを理解し受け継いでいくことも出来ません」



と答えます。






3人目のお弟子さんの覚え方が律芯館で稽古している方法になっています。






覚えるのではなく、理解すること。

分かる、状態になる、ことを目指します






型は作った人と、同じ位置に立ててないと使い物にならないと考えています


 

私はその立ち位置で稽古をしてきましたが、他の古武術の方と話をしたり交流させて頂くなかで


「古武術の、古、の定義を昔からの手順、伝統を守る、とする流派と、古から続く理合いを受け継ぐのが、古武術である。」




とする二つの考え方があるのだと気づくようになりました。






前者は伝統文化としての価値であり、使えるか使えないかではなく、昔の人はどうしてたか、また師からどのように教わったか?が重要になります。



後者は武術として使えるかどうか?
が最優先されます。その結果の動きが先代の動きと一致するというレベルを目指すものです。





私自身の考えでは武術は、古くなってしまえば、通用しないという風に考えています




以前、ある先生から「古武術と言いますが、武術が古くなったことなどありません。」と言われたことがあります。

これは、通用しない武術は武術ではないという意味で、同じことを言ってるのだと思い共感したことがあります

(東京で素晴らしい技量で中国拳法を指導されている先生でした。本当に使える太極拳というのはこういうモノなのか、と大変勉強になったのを覚えています)





理合のある武術は、時代を越えて通用するものです。




用は、環境により変化することがあっても、理は変わることがないからです。



どちらの古武術を稽古していくかは、当人の目的意識によると考えられます




伝統芸能、伝統文化としての歴史的な価値として古い時代の武術を、形を変えず継承するという考え方は重要だと思います。




しかし、武術として成立した技法体系を、通用するのかしないのか?という厳しい基準で武術として稽古せずに、形を変えず継承するというのは難しいのでは?とも思います。



まずその形を手にすることが出来ません。




侍の時代は、通用しない型なら斬られてたのですから、その技術の基準はとてつもなく高いものだからです。




実際に斬りあったり、殴り合うという分けではありません。

失敗すれば、死ぬ。

通用しなけらば、やられる

という立ち位置で型を稽古する必要があるという意味です。

その気持ちで稽古すれば、1回で型を覚えれますし、忘れません。


相談を受けた生徒には、そのようにアドバイスをしました



★☆



結局は型を作った先代方と同じ立ち位置に立つということで、そこで稽古しなければ技を理解することも、身に着けることも出来ないと考えています。



武術研究家の甲野善紀先生が神戸に来られることがあり、以前からその武術に対する考え方など大変共感することが多かったので、一度講座に参加させて頂き講座後に技を受ける機会も頂いたのですが、使えるか使えないか?という立ち位置で古流武術やその文献と向き合って来られたのがすぐに分かりました。



しかし古武道の世界では、そういう立ち位置で古武術を稽古されてる方の方が少数派のようです。

それは「古武術ではない」と逆に言われることもあるのですから。


古武術の「古」という文字の解釈と関係があるのかもしれません。



しかし私自身もそうですが、律芯館指導員一同、「古の武術の優れた理合いを受け継ぐ」という立ち位置での稽古、指導をこれからも続けていきます。



 
 
 
 
 
 

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