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神戸市中央区にて「古流空手、古流柔術」を指導をしている【律芯館】のブログです。 「歴史ある武術を稽古することで得られる心身の洞察力によって、 生き方を深め、自分だけでなく大切な人や周りの人も守れる強さを身に付けること。もし暗い闇の中で何かに怯え苦しむ人がいれば、武術がそこに光を灯せる存在になればという信念に基づいて稽古.指導を行っています」

【律芯館武術コラム.vo20 門下生の方々へ近況報告。】




神戸市中央区にて何年も継続してきた共同武術研究サークル「深夜の稽古会」という野外稽古会から発展した神戸武術研究所【律芯館】ですが、設立当初は5名だったのが現在では本部、支部合わせ23名の団体になりました。

 
それも、ほとんどが一般部のメンバーで、現在主に30代から50代にかけて門下生が集まって稽古をしています。


HPを作った程度で宣伝らしい宣伝もせず、メンバーが増えたのは、体験稽古に来られた方の入門される割合が8割近いという数字があるからなのですが、 これは、僕個人の力ではとても無理な数字で、メンバー全員で道場の良い雰囲気を作れているという結果だと思っています。


ところで道場を設立した時、~道場という名称にはせず、研究所という風に名付けました。

これは、入門された方が、生涯を通じて学びうる価値があるような内容と場を提供すること。


それには、入門当初から全てのメンバーが単に何かを覚えに来るだけではなく、己の心と体を対象に自分自身で研究者として武術、運動、それに伴う心と体の関係性などを研究していくという風に進んでいってほしいという願いがあったのでそのようにしました。


ただ単に空手や柔術を習ってます。というだけではなく、武術を通じて、森羅万象、自然法則、時空間の仕組みを自分の心と体で解いていくこと。理解し納得していくこと。

そういうスケールで、試行錯誤、実験を繰り返している研究所で、学び、かつ自分も研究者としてそこにいるという風な武術研究所を設立当初から目指していました。


実はこれは、正直、全く理解されない可能性がありました。

道場設立間もない頃、入門された方ですぐ止められた方がいました。

また体験に来られた方が、ぐったりされて帰られもう連絡も取れないということも続きました。

(体力的にはそこまでキツイことはしていません。体操程度ですが内容が繊細で高度な技術の為に集中力は必要になります)


明らかにモチベーションが違うというのが原因でした。



それで何度か、一般道場生は、習い事教室という形で分けて、楽しく、長所を伸ばし、難しいことはせず、とそういう風にしたらいいのではないのか?

または、普通の道場のように、毎回決まった稽古を、基本→移動、ミット打ち、組手とパターン化してやっていく方がいいのではとも思いました。

ですが、そうしようと思っても、自分が歩んできた武術の稽古の質が、それをさせてくれませんでした。


ただしゃがんで、立つだけ。

腕を上げて、下ろすだけ、


武術の稽古に入る前の体操ですら、初心者の段階から、緻密な技術として稽古、指導するというスタイルは変えようがありませんでした。



常に1ミリ一度、コンマ1秒の誤差すら許されない世界で、綱渡りのような稽古をしてきた自分には、自分が武術を教えるとしたら、それ以外はない、妥協したら嘘になってしまう、それは出来ないということが良く分かりました。




それで、このやり方で門下生が増えないなら、それはそれで仕方ないと思いながら自身の稽古、指導員への指導などを主に続けていきました。





そんな中、武術に対して強いモチベーションを持って入門されたMさん。

また、最初はストレス解消の運動という感じで来ただろうにも関わらず、一回目の稽古で、ここが、どういう次元で稽古しようとしてるのかを瞬時に理解し、今でもそれについてきているSKさんの二人が入門されたことで、かなり勇気が湧きました。



それ以降、時折訪れる体験入門の方が、どんどん入門されていったように思います。



僕が、こういう場を求めたことによって、うちで稽古する方々は楽しいことばかりではないだろうなと思います。



出来ることより、出来ないことの方が圧倒的に多く、最初のほんの基本ですら、頭も心も体もフルに使い、かつ時間もかけなければ越えれないような難問ばかりだからです。



それでも、熱い雰囲気で稽古場を維持出来ていること。

皆がそれぞれやりがいを感じて稽古していけてるのは凄いことだと感じています。


律芯館に入門される方々の理由は人それぞれです。

運動不足を解消したい、身体を強くしたいという方から、本格的に武術を学びたい、達人を目指したいという方々がいます。

その誰もがその人それぞれの目標に対して真剣に稽古し成果を出していける場でありたいそのように考えて日々指導しています


この体術修行が、全員にとって重要な意味のある日々となるように。


と願っています




★☆
(追伸)


(1)先月から稽古に来られてる中国拳法の先生をされてる小田さんが、律芯館のことをblogに書いて下さっていました。

小田さん自身も武術修業に関して相当なキャリアがある方ですが、当道場でも非常に謙虚で研究熱心に稽古されています

http://himejiodadojo.blog.fc2.com/blog-entry-235.html

(2)律芯館香川支部。が紹介されてました 。 http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/241713/203918/85505615
一般部の稽古場が決まり現在5名の方が稽古されています(少年部は4名) 

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【律芯館武術コラム.vo19「肺気胸と師匠との稽古。」】

【律芯館武術コラム.vo19「肺気胸と師匠との稽古。」】


僕は武術の稽古を始めて25年は経つのですが、元々身体が強いのかというとそうではなくて、もし武術をやっていなければ、相当弱く、しょっちゅう病気になって生活してただろうなという状態でした。

体質的には、生まれつき肺が弱いようで、10代、20代の頃から急に苦しくなってうずくまったり、やたらと立ちくらみがする期間が続いたりしてたのですが、病院で検査しても当時理由が分からず体質だろうと言われたので、自分で食事を工夫したり、武術の基本をゆっくりやったりなどして体力を自分なりに回復させたり、保つ術を身につけ過ごしていました。



それが30代になった時に初めて「肺気胸」という病名を知り、それになりやすい体質だったと分かりました。



ある時、余りにも体調がおかしく自力で回復出来るような状態ではなかったので、病院に行った所、喘息と言われ薬を貰いました。



しかし一向に良くならず、これは流石におかしいと思い神戸大学付属病院で検査してもらった所、レントゲンを見せられて肺が片方完全にしぼんで機能してないと知らされ、その日の内に手術をしてしばらく入院しました。


この当時僕は、師匠の元で空手の稽古に励んでいたのでしばらく稽古出来なくなることが悔しかったのを覚えています。

ただ肺気胸という病名を知ったことで、それまで度々あった原因不明の不調の理由が分かったのは良かったのですが(軽度なら安静にしていれば自然治癒される)


しかし翌年、今度は手術した方の逆側の肺が潰れ、かなり酷かったので再発も防止出来るように全身麻酔での手術を受けました。

 
その後、こんな風にこれからも何度も再発するなら、厳しいなと思って落ち込んでいました


この肺の病気で2度目の手術が終わった後、先生との稽古の時


『もう体が壊れ物になったのだから、これから先一生ビクビクと怯えながら過ごしなさい。』

と言われたことがあります。


一般的には、何てことを言うのだろうと思われるかもしれませんが、僕が先生からかけて頂いた言葉の中で一番優しさのこもった言葉でしたので、心に残る思い出です


僕はこの言葉を、凡人が生まれ変われるチャンスだ。それをお前は与えられたのだ、と解釈しました。

先生との稽古のやり取りから生まれた翻訳能力ですので間違っていないと、今でも思っています。


先生は、常々、空手の才能は「謙虚さ」があるかないかだけだと言ってました。


それを元気な時(調子に乗って生きてる時)は忘れてしまうから空手が上手くなれないのです。


だから「ビクビクと怯えながら過ごせ」なのです

散漫で、曖昧で、いい加減な自分の全存在をこれを機会に変えて見せろ。というエールでした

★☆


師匠の話は、言葉が強く人に誤解されることがあったのですが、僕にいつも必要なことを伝えてくれていました。





例えば注意力が散漫で失敗ばかりする人間が、注意深い人間になりたいと思った時、

「これから注意深く生きるぞー」

とどれだけ気合いを入れててもそんな風にはなれないものです。


先生のやり方だと

「自分は注意深い人間ではない」

ということを忘れないように生きてく。

という風になります





そうすれば、自然に色々なことに注意するようになっていくからです



逆に人が失敗する時は、

自分は注意深い人間ではない。

ということを忘れている時になります



先生はそれは「謙虚さがない」という風に語っていました。





空手の技、技だけでなく全ての動きに対して、これはこんなモノだろう。と思った瞬間、そこで上達は終わる。


とも稽古中に何度も言われました。


いつまでたっても上手くなれない場合、


「技を馬鹿にしたしっぺ返しがきているだけ」

と話していた先生の言葉は、今でも忘れられません。



謙虚さがない、お前もそうだ、と。 


こういったやり取りは、師匠と離れ一人で稽古をするようになってから自分の生き方や稽古の指針となっていきました。

それで空手も随分変わったように思います

☆★


健康に対して、技に対して、今ここにあると思っている物事全てに対して、

当たり前だとか、これはこうだ、とか決めてかかって生きているのが自分で、それはとても謙虚ではないという。

そういうのは普通に生活をしていると、頭から飛んでしまいます


だから稽古の日々から離れないようしないとならないのだけど、これも何処まで出来るもんか不安にもなります



それでも、先生が言っていたように、強いとか弱いとかではない、空手の唯一の才能は、「謙虚であること」なら、


逆に、自分は謙虚な人間ではない。


ということを忘れてないように生きてかないとならないと思います。



普通にしてたらとても謙虚な人間ではないのだから、いい加減な生き方にならないように注意してかないとならないんだって。


そのように生きた方が、心身ともに落ち着いて、しっかりと物事に取り組んでいけると思います。






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武術コラムvo.18「律芯館推薦図書「漫画とDVD」」

律芯館武術コラム.vo18

律芯館では稽古を進め易くする為に推薦図書や、動画など、見ておくと、やる気が出たり稽古の役に立つ本や動画を紹介し門下生に見てもらっています。昔見たことがあっても、自分自身が空手を始めてから見るとまた全然印象も違いますので、時間のある時に是非見てみましょう!!


以下に書いて起きますので参考にどうぞ

★☆

律芯館推薦図書「漫画とDVD」

始めて武術に触れる方でも楽しみながら、用語を覚えたり、武術の世界に触れて、色々理解するのに役立つよう以下の漫画を読むことを推薦しています(★☆★☆★5つ星は必読マークです)。



★☆★☆★
『拳児』原作:松田隆智

中国拳法、古流柔術研究家、松田隆智先生の半世を元にした漫画で、一通り読むと律芯館で良く使われる武術の専門用語などを理解するのにとても役立ちます。

(橋本武術研究員が当道場に全巻寄付してくれましたので、まだ読んでない方から順にメンバー内で回しています)


★☆

「陸奥圓明流外伝 修羅の刻」

陸奥圓明流という架空の古武術の時代劇漫画です。架空の話ですが、陸奥の戦い方、技は、当流派の戦い方と似ており、またこのシリーズでは、対日本刀の話が多い為、お勧めしています。

★☆

『タケル道』

監修は格闘家の小川直也。
古流柔術家が柔道に挑戦する話です。

★☆★

『EVIL HEART』(イビル ハート)は武富智による日本の漫画。

合気道の漫画です。
試合のない武道は、何を目指し稽古しているのかが、上手にかかれています。

★☆★☆

『あさひなぐ』は、こざき亜衣による日本の漫画。


薙刀の漫画です。技術的にも精神的にも、読んで得れるものはあります。
女子高生達が薙刀に出会って稽古していく話ですが、めっちゃ熱いしカッコいい話です。

★☆

「オールラウンダー廻」は、遠藤浩輝による日本の漫画作品

総合格闘技の漫画です

以上。

(他にも色々あるのですが、バギ、コータロー、帯ギュ、小日向、ヤワラ、辺りはまぁいいでしょう。)

★☆

DVD編
(もしくは見れるものがあればYouTubeで。)

★☆★☆★

ベストキッド1~4

リメイクされたモノではなく、パットモリタが出ている古い方のシリーズを見ましょう。主人公の空手は下手ですが、ストーリー、や根底にあるメッセッージは、空手をやるなら是非見て知っておいてほしい作品です。

★☆

『AIKI』(あいき)2002年公開の日本映画。

障害をかかえ、車椅子に乗ったまま武術の修業をする主人公の話。加藤晴彦、ともさかりえ、主演です。

この話にはモデルがいて、車椅子に乗ったまま大東流合気柔術を修業するデンマーク在住オーレ・キングストン・イェンセン。

主人公の師匠(平石正嗣)のモデルは、オーレが所属する六方会の宗師岡本正剛で、僕も20代の頃に、当時教わっていた先生の紹介で、岡本先生に一度指導を受け、大東流合気柔術の基本技を教わりました。

映画の内容は、B級っぽいのですが、障害をおっても稽古していくというのは、例えばスポーツで一等を取るためとかとは、全く違う話です、そういう世界観を見てほしいなと思い紹介した作品です。


推薦YouTube動画
★☆★☆★

塩田剛三先生 合気道

https://youtu.be/jzCWbj4epiQ


★☆★☆★

三船久蔵先生 柔道

https://youtu.be/IIEW1B2duT4

★☆★☆★

柳川昌弘先生
(和道流柔術拳法)

https://youtu.be/Wl9dGWsTgqY

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【難しい、という言葉について】

律芯館武術コラムvo17

【難しい、という言葉について】


師匠の元で空手の稽古をしていた頃、それまでに覚えた競技空手とは、余りにも質の違う空手に、難しい、という言葉が口癖になりかけた時期がありました。

そんなある時 、先生から

「今後その言葉を口にするな」と叱られました。


何故出来ないのか?


「難しい」からというのは、「難しい」せいにしてるだけだという風に言われたのです。


確かに自分の責任だと思わず、「難しい」からと技のせいにしだしたら、頭が回らなくなります。


出来ないのは、自分の問題なのだと本当に思えるかが大事だということを先生は伝えようとしたのだと思います

☆★

僕が先生との武術の稽古を通して学んだことは、単なる空手技術だけではありませんでした。


何かのせいにしないこと、指一ミリ動かすのにも責任を持つこと。

いついかなる時であっても、そのように生きていくようにと、指導されました。

稽古中、

「その手に根拠はあるのか?」

「何故そこに構えた? 」

「今のそれは、何立ちだ?」

と何時間もぶっ通しの稽古の中で聞かれては、何度も意識が飛んで答えれないことがありました。


そこから少しづつだけど学んでいき、観察力が上がったように思える時がありました。

気が抜ける瞬間、「今」が流れていく。

「今」何をしてた?

と聞かれても思い出せない。 ことに何度も気づき

「頭が現実から離れていかないこととが大切だと」

実感しました




先生から空手の稽古を通して教えて貰ったことは、他の分野でも通用することで、僕の財産になっています


 

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【遠くの鐘をならせ~律芯館武術コラム8、「言語と「型」の共通項について」】

禅の世界では師匠が弟子に「遠くの鐘をならせ」という考案を出すことがあるそうだ。


そしてこれは弟子が鐘になりきって「ごーん ごーん」と言い、遠くの鐘です。


と答えるのが正解だそうだ。


最近この話を聞いたのだが、最初わけが分からなかった。流石に無理があるのではと思ったからだ。


しかし暫く考えてると、こういうことかと腑に落ちたので、「これは、~という場所にある~寺の鐘を鳴らせ。と言われたらこの答え方ではダメではないか」と思うところから、こういうことではないかと、自分なりには納得した。


★☆


武術コラム


【言語と「型」の共通項について】


 


武道の稽古では「型」を稽古するが、この「型」という技術は、時間と空間を限定することで、それは言語と深い関係がある。


以前、それを説明する為に、コンビニで買ってきたペットボトルを門下生に見せて「これは何ですか?」と質問したことがあった。


 


それである人は「水です」と言い、他の人は「ペットボトルです」とか「飲み物です」と答えたのだけど、

どれも正解で、他にも「プラスチックです」でも「物質です」でも「叩くと音がするものです」でも間違いではないということを理解してもらうようにした


 


こんな単純なことではあるけれど、人が争ったり、戦争がいつまでもなくならないのは何故か?ということがここには集約されている。


 


問題は我々は何かを見た時に「これはあれです」という風に条件反射で言葉を貼り付けてしまうように出来ている、と同時にその自分の意見に対して「普通そうでしょう」という感情がひっついてくるということだ。


しかし実際は、同じモノを見てもこれだけ違う言葉が出てくるのだ。


 


例えば「水」と答えた人が、「飲み物です」と答えた人のことをそれ程何も思わなくても、

「プラスチック」です。と答えた人のことは、「なんだこいつ何でそんなこと言うんだ、普通ペットボトル飲料持って聞かれたら、飲み物として答えるだろう」と、おかしいのではないかという気持ちが生まれる。


そして人は意見が近い人を高く評価し、そうでない人を低く見るという現象はどこでも見られる。


 


まぁだから人間関係はしょっちゅうおかしくなる。


これはこうだ、と条件反射で決め、さらに皆がそれぞれ「普通そう思うでしょ」と考えてる分けなのだが、実際は見えてるものにつける「これはこうでしょは」は、てんでバラバラだからしょっちゅう嫌な気になるし、戦争にもなる。


差別意識は簡単にはきえるものではない。だから何故そういう意識が生まれるのかを知ることが必要で、それが争いをなくすことにつながっていくと思う。



ここから武道の話に入るが、


先ほど書いた【「型」という技術は、時間と空間を限定すること】だが、ペットボトルの時の質問では、この「型」が機能していないことになる。


 


「これは何ですか?」という言葉の意味が広すぎるのだ。それで色んな答えが出る。


 


そこで時間と空間を言葉で限定する。


そうすると、


「先ほど自販機で買いましたこのペットボトル飲料ですが、この飲み物は何ですか?」


と聞けば、水が入ってたら「水です」と答えが出る。


もしコーラが入ってたらこの質問では、「コーラ」の他に「炭酸飲料です」という答えが出る可能性があるので、


「先ほど自販機で買いましたこのペットボトル飲料ですが、この炭酸飲料は何ですか?」

と質問を変える。


また、「先ほど自販機で買いましたこのペットボトル飲料ですが、この入れ物の材質は?」

と聞かれたら、「プラスチックです」と答えが出る。


逆に「水」とか「飲み物」とは答えられない


 


 


このように質問を言語で限定すると、答えの幅も限定されるのだ。


 


武道の型でも同じように、具体的に式を設定すると、その対応として動きが生まれる。


それがたった一つの動きにまで集約されると、その式は「型」となる


色々動けたり、変更しても困らない「型」というのは偽物ということになる


これが「律芯館」での「型」のいみであるが、


しかしこれも「型」とはこうである。と言語をつけただけで、武道を稽古する人の数だけ「型」の意味も存在することを忘れると争いになるのだ。


 


人は、「これはこうだ」と意味づけを強化したもの程、執着するから、例えば自分が「型」とはこうだ。と究極までいってたとしても、他の人の型を見て「なんだこいつの型は。これが型だと思っているのか」と悪い感情が出た瞬間に、それは武道という道から逸れてると知らねばならない。


戦争への道だからだ。


武道の稽古では、言語の構造。「型」化するということを学んでいく過程で、思い込みという癖が誰にでもあるということが見えてくる。


例えば新しい技を教わった時でも「これはあれだ」と過去の経験から瞬時に思い込み、もう実際の動きなど見えていない。


 


それが上達を妨げる最大の要因になるので、稽古では主観をいかに外していくかということが主目的となる。


稽古が進むとそれと連動して、日常生活でも瞬時に思いこんで固定してしまう癖というのに気付けるようになってくる。


嫌なことを言われる(この嫌なこと。というのも主観)


しかし「あの人嫌な人だ」と思った、数日後状況が変わり、いい人だなって思ったりする。


その逆もある。


逆に何が起きても、ずーと「嫌な人」として見てる自分


何されても「いい人」だからという目でみてる自分


こんなコロコロ変わったり、現実と関係なく変わらないモノの見方をその時は、確実に正しいと思いこんでることに気付くと


ふと「これは、違うな」と思えて怒りが消える瞬間が来る


要は物事の一面しか見てないだけだと気づくからだ。


そうすると、すーっと落ち着く。


武道の稽古にそういう力があるのは、言語と「型」の動きを観察することから生まれる洞察力からだと思う


そういう技術であるからこそ稽古する価値もあるし、次の世代に渡していく無形文化財なのだと考えている。


 


神戸武術研究所「律芯館」

代表 本部道場 師範blog


 


★☆


~稽古が足りてないの話~。


「遠くの鐘をならせ」


と聞いた時、僕はありもしない、遠くの鐘というイメージを勝手に作りあげ、そんなのそこまで行かないと鐘を叩けないだろうと思いこんだ


だから


「ごーん ごーん」


と答えた弟子の「これが遠くの鐘です」


という言葉を聞いて、最初、「馬鹿にしてるのではないか」と思ってしまった。


 


しかし、こういう意味の広い浮いた言葉は100人いたら100人それぞれの「遠くの鐘」が現れる


良く考えたら別に自分が声を出して「これが遠くの鐘です」と答える人がいてもおかしくない。


例えば、そのお弟子さんの生まれ故郷では、単に自分が「ごーん ごーん」ということを「遠くの鐘」と呼ぶ村で育っただけだったのかも知れない。


ありとあらゆる可能性が考えられる。



「普通はこう」と自分が思う時、自分は何でも知っているのだ、という立ち位置にいることを知らなければならない。そこから出てくる発想である。


 


 


この考案のことを考えてると自分の価値観や先入観というものがぶち壊される


昔から武道と禅とは縁が深いが、「こころを育てる」という共通項がそうさせるのだと思う

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